列車脱線事故をかんがえる



 1週間を過ぎました。事故を起こした車両に他の運転士2名が乗っていたが、救助活動も行わずに通常出勤し仕事に就いていたという報道があった。
 新型ATSへの切り替え工事は運転再開の条件じゃない、とか言っておきながら、担当大臣に釘を刺されるといきなり工事を始める始末。彼らの全ての言動が、JR西日本という組織の意思決定および社風を物語ってるいるような気がする。
 これは天災じゃない、人災。ある意味、起こるべくして起こった事故であり、殺人と同様だと思う。巨大地震に巻き込まれたならまだしも、人命を預かっているという基本中の基本が欠如した組織の陰謀によって殺された犠牲者。運転士もしかり。確かに、経験も少なく余裕も冷静さもなかった「彼」だから起きたのかもしれない。でも、彼もJR西日本によって殺されたも同然だ。彼を責めるのは簡単だが、問題はそんな事じゃないと思う。
 度重なるJALの不祥事、そしてこの脱線事故。先進国日本の公共交通機関の安全性はことごとく崩れ去っている。公務員の不祥事や警察の裏金問題、全てにおいて「専門的職務」の慣れと怠慢が事件や事故となって現れているようにも思える。
 時にはハエやゴキブリ扱いされるマスコミ。これもまた「専門的職務」だ。そこに慣れやダラケはないのだろうか?テレビだから何やってもいい、そんな事はありえない。そんな「驕り(おごり)」はないだろうか。
 今回の一連のニュースを見て、何回か泣いた。涙が出た。被害者の10秒のインタビューの前後には想像を絶するやり取りがある。こんな状況の時にカメラやマイクを向けるな!なんて罵声がぜったいあったハズだ。自分達も精一杯黙祷をささげたいハズだ。でも、そんな状況に一緒になっていては「伝える」事はできない。感傷に浸ってる余裕なんてない。
 画面に映し出される現場は、ほんの一部で、カメラの後ろで泣き崩れている遺族なんかもたくさんいただろう。そんな現場全体の様子がなんとなく頭に浮かんでしまう。目の前で血を流して倒れている人たちを助ける事もなくカメラを回し続けることが、どれだけ苦痛で大変な事か。そして、自分だったら冷静にカメラを回し続けることができただろうか。
 自分達にできること。それは、この「事件」をいつまでも忘れず、次に生かせる為に「伝える事」なのかな?と、思う。犠牲者の多くは若者だった。心からご冥福をお祈りいたします。そして、それを見た多くの若者が、命の大切さと腐った組織の怖さを考える事で、今回亡くなった人達が少しでも報われるのではないかなと思う。